20世紀フランスを代表する哲学者であるジル・ドゥルーズの『シネマ』という著作について、若きドゥルーズ研究者の福尾匠さんが5時間にわたって講義してくれます。まずは一時間目分を整理して紹介します。興味のある方は、リンクに飛んで続きをご視聴下さい。
まず、この書は映画論なのか哲学書なのかよく分からない事から、敬遠されて来たそうですが、本人いわく「哲学書」である
■既存の論理体系を、新しい映画に適用することを批判
ドゥルーズは、「映画を素朴に見たままに見る」
背後をいちいち考えない
当時また現在でも、精神分析、言語学などの専門的な概念に当てはめて
映画評論をする風潮がある
しかしそれでは、既存の理論体系に映画を適用しているだけで
映画の新しさが死んでしまう
むしろ、映画から喚起される新しい概念や理念
を素材(フッテージ)として、新しい実践的な哲学を生み出すことが出来る
アイディアとは、一般的なものではありえない
例えば、魚を焼く時の新しいアイディアや、鉄を精製するときの純度の上げ方など
すべて、具体的で、実践的で、限定的なものだ
それらを、既存の理論体系に当てはめてしまうと
その良さが死んでしまう
だから、彼は既存の精神分析などの手法によって
スクリーンに映っていない場面を想像して加えて論評する風潮や
スクリーンからは読み取れない人物の心象を、使い古された手法によって加える事を批判する
■表象と実在
また「映画を素朴に見たままに見る」という事に関して
人は昔から、物事を表象と実在に分けて考えてきた
以下のように
見たままーその背後
表象 representation
実在
物質とイデア
観念論者 全ては脳の働き
実在論者 全てを物質に還元
青く見える物が実際には青いとは限らず
細かい光子の振動が人の目にそう映るだけ
しかし、ドゥルーズはこのように分けて考えず
イメージという言葉で、この両概念を統合する
■イメージ
物質とはイメージの総体であり
それは表象以上、事物・実在以下である
知覚されるものだけがイメージではなく
知覚されないものも全てイメージである
ペットボトルが落ちた場合、その結果は自然法則に従う作用と反作用であり計算可能である
そして、そのすべてがイメージである
しかし全ての作用、反作用的なイメージのなかで、「身体」だけは特殊である
それは外的に知覚されるものであると同時に、内部に感じられるものである
また生物は入力運動に対して等しく出力するとは限らず
入力された運動を選択して、出力するので「釣り合わない」のである
例えばAさんの言動に対して、Bさん、Cさん、Dさんは
それぞれ異なる反応をするし
犬や猫も、ある車が通りすぎたり、地震が起きたときに
それぞれ異なる反応(運動)(出力)をするということだ
■アンリ=ルイ・ベルクソン
(Henri-Louis Bergson [bɛʁksɔn]発音例、1859年10月18日 – 1941年1月4日)
アンリ=ルイ・ベルクソンというドゥルーズより前の時代の
同じフランスの哲学者は物質と記憶という本の中で
見える実在は「嘘っぱち」
科学的に、切り出されたある一点とは
連続している時間や実在とは無関係である
映画装置は、連続写真をスクリーンに投射することにより
視聴者はそれを運動していると捉えるが、それは錯覚である
実際には、何枚もの静止画があるだけであり
視聴者はそれを運動していると錯覚しているだけである
現実の私達の宇宙も
実際には、瞬間前の宇宙が消滅して、今再度突然現れているのを
連続したものと錯覚しているだけと想定してもなんら不思議ではない
人為的システム: 知性 無機的 抽象的 映画
自然的システム: 有機的 具体的 実在的 リアル
※最近では、時間すらも最小単位があり、その間は断絶しており非連続的だとする説もある
■ベルクソンに対するドゥルーズ
ベルクソンに対してドゥルーズは
「手段が人為的であるから、結果も人為的であるとして良いのか?」と反論する。
たしかにベルクソンの時代の映画装置は
ワンショットをそのまま撮って、見るという素朴なものであり
運動が人為的な錯覚であると言えるかもしれない
しかし、カメラも動き、編集も加えられる
ドゥルーズの時代の映画は、ベルクソン的な運動を可能にする
映画は運動のイメージを、直接的に視聴者与えることが出来る
だからドゥルーズの態度は一貫して「映画を素朴に見たままに見る」となる
■感想・まとめ
聞きなれない用語が並ぶので難解ではあるが
何かしら知的好奇心をくすぐられる事は間違いない
一時間の講義を自分なりにまとめるとこうなる
映画装置という人為的な手段を通して与えられるものを
ベルクソンは、「嘘っぱち」だとするが
特殊な身体をもった生物である我々が、それを「素朴に見たままに見る」時、
人の喚起されるイメージは人為的なものではなく、人が受け得る全てである
そしてそれを新鮮な素材(フッテージ)として、
人類は新しい実践的な哲学的営為をする事が出来るのである
福尾匠さんが、要所要所で「要するに」といって
簡易な表現に置き換えてくれて、そのおかげで
難解なドゥルーズを少しでも分かった気になれるのであるが
これは、福尾匠さんが、要点を理解されているから可能なのであって
それを拝聴できるのは、ありがたい事である
ドゥルーズ哲学、関連動画↓
小倉拓也・講演「ドゥルーズの芸術哲学―感覚・記念碑・可能」(著書『カオスに抗する闘いードゥルーズ・精神
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