■雑誌的であるということ
宇野常寛さんは若いころから雑誌が好きだと公言している
好きというよりは出会ってのめり込んでいったと言うべきか
今のようなインターネットがなかった時代
若い僕たちが世界を見る事の出来る窓は多くなかった
そのような中で
ふらっと寄った書店で雑誌をパラパラとめくり
お目当ての記事を読む
そうすると自然とその前後に
思いもかけず考えもしなかったトピックがさらりと書いてある
好きな芸能人が表紙に出ているので手に取ってみたら
遠いモロッコの昔ながらの風習などが書かれていたりする
そこで十代の若い知性は
考えたこともなかった世界を突然目の当たりにしたのだ
■発信者であること
今の時代は誰もかれもが発信をしなければ
フォロワーを増やさなければと思っている
でも、もしも私達の内側に
豊かな知性の土壌がなければ
誰かがAと言っていたよと
リツイートすることしか出来ない
そしてそこには何の生産性も
知的な発展も、発見もない
しかしもしも僕たちの内面に
雑誌的な多種多様な知識がトロトロと煮込まれたスープのようなものがあるなら
何を聞いても、何を発信するにしても
A→Aとはならず、 A→X,Y,Zになる
だから雑誌的な思考は
いち物書きとしても必須となるというのだ、、、
■雑誌の編集者であるということ
雑誌の編集者であることは
自分の分よりも他の人の文を多く掲載する仕事をすることだ
だから僕たちは宇野常寛さんの作る雑誌より
宇野さんの著作のほうが宇野さんの思考の純度が高いと思う
もちろんその通りなのだけれど
それはあくまでテーマを絞った思考の一角にすぎないのであって
宇野さんが見ている世界の全容は
宇野常寛さんが編集する雑誌のほうに色濃くにじみ出ていると言う
だからもしも編集長が変われば
雑誌は全然べつのものになる
■ニュースサイトの編集者として
最近ぼくは、複数のライターさんに
当ニュースサイト(ルーベン動画ニュース)の
記事を書いてもらうことにした
一人で書き続ける事への限界を感じた為でもあったけれど
結果的にはとても面白い経験だった
半分くらいは
このことについて書いて下さいと依頼し
半分くらいは
自由に書いてもらった
だから別に僕の言葉ではないのだけれど
やっぱり僕の見ている原風景の一部がにじみ出るのだろう
■雑誌的な思考の可能性と脆弱性
世の中は千個の記事を書いても表現できないくらい複雑だ
だから多種多様な記事を扱う雑誌や
雑誌的思考がなければ世界を語る事は出来ない
でも同時に雑誌をめくる読者の
傍観性という点にも留意する必要があるかもしれない
グラビアを見ながら次のページに
少年兵や世界の貧困の特集が組まれる事に慣れてしまい
何を見ても当事者ではなく傍観者になってしまうという事がある気がする
雑誌的な知性や情報を消費しているだけで何の行動にもつながらないとしたら
(それでも大抵の雑誌刊行者は喜ぶだろうけれど)
書き手が、良質の記事を書く意欲がそがれてしまうとしても不思議はない
希望が持てるのは
1万人に一人くらいの割合で若い読者の胸を打つ事があるかもしれないことだ、、、
【文責:著者名: 山崎純二 、本名: 山崎 順】
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『二十代、派遣社員、マイホーム4件買いました』(パル出版)
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